昭和49年03月16日 朝の御理解



 御神訓 一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」

 神の教えも真の道もと、神の教えを聞かせて貰う。聞かせて貰っただけではね。神の教えを聞く事に依ってそれを行ずる事に依って、真の道が解らせて頂く。教えを頂いてそしてその教えを行じて行く所から、真の道がはっきりして来る。その真の道に出ておくというか、真の道をひたすら歩かせて頂く。それはあの世この世を通してであります。真の道一筋にそれを歩き続ける。そこに真のおかげ真の救い真の幸福がある訳です。ですからその真の幸福と言う事、それを得られないと言う事ですからね。
 真の道を知らぬ人の哀れさというか。どんなに気張っておっても、どんなに幸せになろう幸せになろうとして努めておってもです。真の道を知らずして、真の幸せ真の幸福にはなりえない。其処で哀れな事だと言う事なんです。ね、例えば私共の世界でも、ね。それは一見非常に幸福そうに、例えば商売をしておるなら、商売が繁盛してお金もどんどん儲かって行きよりなさる。けれども私共少しでも、信心の道が解り教えを頂き、その教えを行ずる所から、真の道とは是だと。
 私共が究めを付けて、歩かせて頂いておる者から見ると、もうそれは本当に危ない、危ないそれこそ、信心の無い所謂、真の道を知らず、真の道を歩いてない人たちの姿と言う者は、もう本当にはらはらする様な思いであります。ね。本当にあの信心のない所謂、真の道を解らない、所謂真の道を曲りなりにでも解からして貰うて、それを歩いて本当の真に道に出合い。是を行きゃ出れるんだ、真のおかげが頂けるのだと言う確信も持たずに、只人間の幸せ幸福と言う物を願わん者はないですけれども。
 それを願うの余りに、それぞれの例えば、真の道ではない道を歩く。ね。もう此の世はもう健康でさえあればとか、ね。お金さえあればとか、もうなーにんなかばってん、もう一家中こうして健康だからと。果たしてその健康だからだけで、人間の真の幸福が有り得るだろうか。ならお金を山程積んだからと言うて、人間の幸福が有り得るだろうか。ね。実際にお金も貯めて見て、健康でもあって見て、そしてそれだけで、人間の幸福と言う事がどうにも出来ない事が解る。ね。
 そこで私共が、神の教えも真の道もとこう、神の教えを先ず分かる、ね。其処からどう言う事になって来るかというと、所謂心を使うと言う事。心をまあ、有難い有難いと言う方へ使う稽古。神様の教えはもう全てがそうです。言わば御道の信心は、ね。偉く成る為でも、賢く成る為でもなくて、もう有難くならせて頂く稽古だとこういう。ね。神の教えを頂くと言う事は、ね。そう言う事を教えて頂くのである。
 それを行ずる所からは、どう言う事かというと、ね。言うなら心の使い方を教えて頂くのである。教えの全てのそのギリギリの焦点が和賀心である。有難しという心である。勿体ないという心である。相済まんという心である。ね。其処から真の道が見え出して来る。真の道が解って来る。いや真の道が着いて来るのである。それで此の道を一途に、只たどって行けば、真の信心であり真のおかげ、人間の真の幸福と言う事が、いや幸福のその条件がです、ね。間違いなく付いて来るのである。心の使い方、ね。
 だから、結局信心とは、私は心の使い方の稽古だ。それも教えに基づいての事である。そこから真の道がはっきり、真の道というのは、天地をこう貫通しておる、天地に通うておる道である。いわゆる、天地の大道である。それをまあ、道理に合うた生き方と言う事になりましょう。天地の道理に合うた生き方が出来ると言う事。天地の道理に合うた生き方をしてない人の姿を見るとです。本当に気の毒だなあ。実を言うたら、哀れな事だなと言う事になるのです。
 一生懸命働いたそして七十年八十年、例えば長生きをして一生懸命ほんなら財産を築いたり、ね。人のま信用を獲得して行ったと致しましてもです。ね。只人の信用だけでは人間は幸せにはならない。お金を貯めただけでは幸せではない。と言う事が解っておる人解っていない人。そこに信心のあるもんと無いもんの違いがはっきりして来る訳です。其処でなら信心のある私達としては果たしてほんなら神の教えもと仰る。
 神の教えを頂いておる。そして真の道もと仰る、その教えを行じて行く所から、真の道。その真の道と言うのが天地の道理に照らして、天地の道理に合うた生き方をさせて貰う。ね。其処から言うなら間違いのない日々、間違いのない真の幸福の道をひたすら歩かせて貰うて、此の世だけではないその心がそのまま魂は又あの世で、真の道を踏み続けて行く事であろう。真の幸福を目指して所謂大安心の境地を言わば目指して、御霊ながらに又和賀心を目指して進んで行く。その道を知らずその道を分からず。
 例えば此の世を果てて行った魂を、私は迷いの魂だと思う。昨日はもう一日テンヤワンヤの忙しい一日でした。午前中、久富繁雄さん所の結婚式。それから一時間あいを置いて、中村さん所の、お婆ちゃんの五十日祭。それに合祀祭を合わせてさせて貰った。付き合い親戚の方たち、皆んな集まってからのお祭りでした。本当に親が子を思うと同時に、子がまた親を思う、情の美しさと言う物に、触れた気が致しました。
 もう前々から五十日祭、五十日祭、五十日祭をもう、祈りに祈り願いに願っての事でした。もう本当に、ま、万事万端にお都合お繰り合わせを頂いてのお祭りでした。それを私昨日特に、博之さんと(いつみ)さんの兄弟が、もう心を合わせて、もう前日から御用させて貰、それこそお供えなんかもあれやら是やら、それこそお婆ちゃんが喜ぶだろうと言うような物の、いろんなまあその力の限りではありますけれども、努めさせて頂いて、おかげを頂きました。
 神様にその事を私がお取次ぎさせて頂いておりましたら、小さいそうですね畳六畳ぐらいの小さい庭なんですけれども、庭にも、見事な石庭を頂いた。石庭と言うのは石の庭。此処にあるのが石庭ですね。此処もそうです。そちらに出来ておるのも、石だけで出来ておる庭を石庭という。私はそれを頂いて本当に思うた。本当に子供達が孫たちが、こうやって思いを揃えて、しかも思いを込めてもう、心配りの限りを尽くしておると言う事である。例えばそう言う大きな石とかま岩とかと言う様な物がです。
 ほんなら六畳位の小さい所に、ほんならこういきなりにごろごろこう置いてあったとしたら、どう言う事であろうか。もうそれこそ邪魔になる事だろう。又見苦しい事であろう。もうこう言う石はいっちょ早よ片付けんかと言う事になって来るだろう。ね。私は石と言う事は心と言う事だと思った。あの人は意志が強いと心が強いと言うでしょう。ね。その私共のその心と言う物がです。ね。いきなりに例えば置いてある所にです。それが邪魔になるそれが見苦しい。
 家庭の円満を欠いておると言う事は、そう言う事なんです。ね。例えば親子五人なら親子五人の生活が其処にあるけれども、一人一人がです心配りをしない。いうなら配石をしない。庭造りの人が石をこうやってその、約束に基づいて石を生けて行く配石をして行く、ね。それを配石という石を配って行くと言うのである。ね。それがね只ほんならそう言う心得も何にも無い人がやってもいけません。大した事はありませんと言うてそれを、ほんならごろごろ庭にこ積んであると言うだけであったら愈々いけません。
 それこそ見苦しいだけではなくて、邪魔になる。人間の幸せに幸せにとこう、幸せの事を幾ら願ってもです。どれだけほんなら金が貯まってもです。そういう心配りのない家庭という、社会と言う物は、もう是は愈々生き難い、住み難い世の中であったり、住み難い家庭と言う事になるのです。ね。それを心配りをさせて貰うと言う事。しかも今日の御理解です。教えに基づいてなんです。ね。
 だから一つの教えという、一つの約束です。その約束に基づいて配石がされるのですから。それこそじっと眺めておるだけでも楽しい様な家庭と言う事になり、また庭と言う事になる訳でしょう。ね。中村さん所の霊祭にです。ほんならまあ娘さんの中村さん。それに孫さんの哲美さん、博之さん、もう昨日お祭りをさせて頂ますまでの、あそこへ二、三日の、まあ神様の是が働きと言わなければおられない。
 もう昨日のお祭りの半ばまでそうでした。もう本当にそれはもう、あの神様の働きちゃ素晴らしかねと言うて、あの言った事です。ね。もう万事万端の上にご都合、お繰り合わせを頂いての、まあお祭りでしたが、ほんならまあその親子三人の人達が、一生懸命その御霊祭りの事に付いて、真心の限りを尽くして心配りをした。それが神様はそういう、それこそ立って眺める様な、狭い庭ではあるけれども、見事な配石が終わった石庭の様子を頂いて、御霊様が喜ばれる事であろう、神様がまた喜ばれる事であろう。
 自分達もその心配りの思いを尽くさせて頂く事の、その後味と言う物は何とも言えん有難さであろうとこう思う。信させて頂いてね、信心をさせて頂いてその教えを頂いて、その教えに依って色々と自分の心配り。はあーこうしたならば子供が喜ぶであろう。こうしたならば親が喜ぶであろう。こう言う風にしたならば御霊様が喜んで下さるであろうと、思いの限りを尽くして心配りをすると言う事がです。信心なんです。
 私は又終わって、終わりましてから控えに控えておる所へ、親子三人でお礼に出て見えた、四人で見えた嫁も一緒に。してから中村さんが言われるのに、親先生今日のあのお祭りが済んでからの、あの親先生の御理解を頂いてからも、実は驚きましたち。実は私もその石庭を頂いたち言うのです。ね。それがその三つの石をこうやって配石してある所。言うならば中村さん、博之、哲美、三人の石を配ってある心配り。
 しかもそのその先にまた、御理解が付いておるのは、中村さんが頂きなさった、生まれたばかりの赤ん坊に、産湯を使わせその石庭で、産湯を使わせておると言うお知らせであった。もう本当に私も感動しました。神様が私に教えて下さった事。又は中村さんに教えて下さった事が、寸分違わぬお知らせであった。只中村さんにはその、赤ん坊の産湯を使わせておる様な姿。言うならばお国替えと、そらもう九十幾つにもなった人だけれども、あの世に生まれたのですから、生まれたばっかりです。ね。
 だからそれはお婆ちゃんの、言わばあの世に誕生されたばかりの姿である。そして、有難い事にはです。ね。所謂此処のまだ椛目時代に、所謂娘である所の中村里恵さんが、一生懸命親の難病を治したいばっかりで一心にお参りをしてきた。医者にも入院してするけれども、はかばかしくない。もうどうせ年は年だし、病気が病気だから、もう医者もさじを投げておるという形であった。
 それでもまあ、その二つに一つと言う様な手術をすると言う事になったら、お婆ちゃんが手術はしたくない。そんならもう連れて帰って来なさいと、私が申しました。乳癌という病気であった。おかげを頂いて帰ってから、一心に神様に打ち込む事によって、もう本当にたまがる様におかげを頂いた。それから七、八年ですか。もうそれこそあの、横へ小さい畑がある所へ、それこそ鍬持っていって、自分がこうやってちょっとあの、百姓の真似事でもして見たいぐらいにおかげを頂いた。
 で、九十四歳でしたか、亡くなって、という長生きの言うならば、神様に頂いた寿命を全うしたと言う感じであった。そして本当にお繰り合わせの中にもう、本当にお繰り合わせの中に、所謂このお婆ちゃんが亡くなるのを境に改式した。もうその改式の時なんかの具合というものは、もう只ただ驚くばかりの万事万端お繰り合わせであった。成程親戚なんかには、随分抵抗のある人達もあったけれども、ね。
 段々解って来た。又解って来られる事に違いはない。ね。そう言う前置きがあっての、御霊様であるから、私は神様任せで助かったという、金光様の信心の言わば道を知って、その道に出ておると言う御霊様です。ね。だから是からはなら、遺族の者の娘やら孫達の信心によってです。その真の道の道を歩いて行く、言わば教導を受けながら、又はしばらくは手が要るとこでしょうね。あの世には誕生したばかりですから。ね。
 其処のそれこそ心配りを込めての、言うなら産湯から使わせんならん、それから段々成長のおかげを頂いて、独り立ちが出来る所までは、言わば遺族の者の信心になると言う事であります。そればってん有難いでしょうが。只そういう病気でおかげを頂いたと、金光様のおかげを頂いたと言う事だけでま、金光様の道に出ておるんです。それであの世に誕生した所が、矢張り金光大神の世界であったと言う事である。ま、是はあの是は私の知ってる限りで、皆さんに聞いて頂くならね。
 あの言わば神様の世界御霊の世界、ね。其処にはね言うならば、お釈迦様の世界がありキリスト様の世界があり、ね。又は教祖生神金光大神の世界があるんです。私共は金光大神の、言わば世界におかげを頂いておりますから、死んだら必ず金光大神の世界に誕生する訳です。だから金光大神のお取次ぎを頂いて、又信心を進めて行く事が出来れるのです。もう少し小さく言うと、ほんなら私大坪総一郎の世界もあるのです。
 だから金光大神の、例えば世界の中に、丁度日本の国がこうあって、ね。其処に福岡県があったり、佐賀県があったりする様な物。ね。所謂金光大神の世界の中に、又大坪総一郎が言うならばの、治められる所の世界。甘木の世界があり玉水の世界があり、久留米の世界がある。だから皆さんは私とこうして、縁を繋いだのですから、もう私の世界はね、もう実際にあるんです。私は行ってないけど。ね。その世界で真の道を究めて行くのです。まあ此の事は、又日を置いて聞いて頂ましょうがね。
 だからです結局私が決めた、合楽の一つの法則とでも申しましょうかね。合楽のおきてとでも申しましょうか。合楽の流儀とでも申しましょうか。合楽の流儀で行かないと、だから、合楽ではおかげにならんです。是ばほんなら玉水さんの流儀で行ってもいかんですね。何処にどんな立派な世界があってもね。金光大神と言う大きな世界の中に、そんならば合楽の世界がある。大坪総一郎が言わば、支配する所の世界がある。
 その世界に言わば私の定めた言うならば掟の中に、皆んなが一糸乱れぬ生き方をさして貰う生き方を学ばせて頂いておるのである。子供達の言わば信心によってです。言うならばあのお婆ちゃんは、ね。合楽の世界、合楽の大坪が支配する世界に誕生した、ね。そこで孫達やら娘達が、ね。その言わば成長を願って行くのである、今度はね。次には一年祭があり、ね。三年祭があり、五年祭の式年祭があると言う様に、式年のお祭りの都度都度に、是程成長させて頂いたと言う御霊様を、ね。
 それこそ楽しみに信心して行くのです。いわゆる真の道を踏んで行くのです。だから実を言うたら、改式しなきゃおられんと言うのです。ね。そう言う意味でのおかげを頂いて、ね。心配りそれはその、言わば配石です。ね。配達の配、ね。石。心を配ると言う事です。信心は結局そ、心配りの稽古です。それを言うとなら、自分の心と言う物を有り難い方へ、有り難い方へと、有り難い方へ、使うて行くと言う事なんです。その心配りと言う事を、御道では、実意丁寧神信心とも言う訳です。ね。
 実意を込めて心を配って行く。その心配りが見事であれば家庭の中に、そう言う心配りの出来る喪のばかりになって来る所にですね。それこそ立って眺めたい程の素晴らしい石庭が出来る様に兎に角、あちらの家庭に行ったらもう本当に、もう本当に何とはなしに有難いという家庭が出来る訳です。ね。そう言う家庭を和賀心の家庭というのである。そう言う心の状態を広めて行く事が和賀心時代を作るという社会に、そう言う和賀心時代を広げて行こうと言う所に。
 合楽のいうなら使命をお互い感ずる訳です。その為にはお互いが愈々です、ね。神の教えを聞き、そして真の道にでらせて貰うて、その真の道を、只ひたすらに限りなく歩かせて頂く。それは具体的に言うとどう言う事かと言うと。心配りをしながら、教えに基づいて、心配りをしながら生活をして行くと言う事です。そう言う生き方が、言うならば安定した生き方です。神様が喜び安心して下さる生き方。ね。
 其処にそう言う生き方をしてない人達の姿を、私共が眺めた時に神様が眺められた時にです。哀れな事だなあと、ご覧になるのであり、私共もまたそう言う人達を見ると、本当に気の毒で、気の毒でたまらんというところから、神心も起きてくる。そして、お話の一つもしてあげなければ、お導きをして差し上げなければ、本当に気の毒で堪らんと言う事になって来るのじゃないでしょうか。
 その情が愈々本当の喪のになってくれば来る程に、愈々神心も強うなって来るのであります。ね。そして言うなら一糸乱れぬ、和賀心の言わば心配りをさせて頂ながらの、此の世であり、そしてあの世でもあらなければならん。皆さんどうでしょうか。信心の無い人達の、例えばもう話寄り、もう例えば、いろんな集いの時に聞きますね、信心の無い人達の話を。もうほんに身のずんとする様な気の毒な、それを得得として話しておられる人達の姿を見たり聞いたり致しますと。
 本当に気の毒だなあ、本当に神様が哀れと思し召すはずだと思うような、悪い意味に感ずるでしょう。それを皆さんが、感ずるなら感ずる程皆さんは、本当の真の道を歩いている事になるのです。信心しておっても、それは変わらない。信心しておっても、信心のある者も、無い者も変わらん様な生き方をしとったんでは、勿論、詰らん訳ですよね。
   どうぞ。